2008年06月26日

デカルトからベイトソンへ

 今日は、モリス・バーマン著「デカルトからベイトソンへ」をご紹介しましょう。

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 本書は、個人的になぜNLP(Neuro-Linguistic Programming)を学んでいるのか?、NLPでもって何を達成しようと考えているのか?ということに対する示唆を与えてくれた書籍として座右の書という範疇に入る名著だと思っています。

 
確かに今の日本、職場にしても家庭にしても、明治〜戦後にかけて欧米から輸入したデカルト的二元論が幅を利かせていて、様々なところで心-体の分断が起こっており、これが様々な社会問題の根底にあるような氣がしています。  

 例えば、グローバル・スタンダードに併せた経営などというのも、ある意味、デカルト的な二元論の押付けに過ぎないのかもしれませんし、言った作業だけやってくれれば言いやというような単純派遣労働者の問題などもまさにデカルト的世界観から派生している問題のような氣がしています。

 つまり、このような問題の背景には、人の心や精神の成長、人と人とのつながり、といった発想が希薄になって来ているという要因があるような氣がしているわけです。
  

 その意味では、本書ではまず、西洋の科学史観を俯瞰し、現在世の中で起こっている様々な問題点の原因がやはりデカルト的の二元的なモノの見方にあるという指摘が行われており、個人的には非常に納得が行くものでした。
  

 しかし、単純にデカルト的世界観の逆をやれば言いやという方向になってしまうと、今度は歴史を遡り、単純に魔法、呪術、錬金術といった怪しい世界に突入してしまいます。

 例えば、これは、会社の重要な意思決定を定量的な分析をせずに、シャーマンの夢のお告げで決めるのか?というような世界を指すのでしょう。
 

 それでも、最終判断は経営者のハラひとつということになるのでしょうが、やはり途中の過程がまったくブラックボックスというのも考え物なのでしょう。
  

 これを本書の言葉で言えば「世界の再魔術化」ということになるのでしょうが、しかし、そうはならなかったのが本書の偉いところなのです。
  

 そこで、このようなある種カルトとも言える世界を避け、もう少し科学的なアプローチを使って、非カルト的なアプローチが出来ないのか?ということで登場するのが、本書のテーマにもなっているグレゴリー・ベイトソンのアプローチということになるわけです。
  

 本書から援用すると、デカルトとベイトソンの世界観はかくのごとく異なっているのです。


デカルト(近代科学)の世界観ベイトソンの全体論の世界観
事実と価値は無関係。事実と価値は不可分。
自然は外側から知られ、諸現象はそのコンテクストから取り出され、抽象化されて吟味される(実験)。自然は我々との関係の中で明らかにされ、諸現象はコンテクストのなかでのみ知ることが出来る。(参加する者による観察)。
自然を意識的、経験的に支配することが目標。無意識の精神が根源にある。叡智、美、優雅を目標とする。
抽象的、数学的な記述。数量化できることのみが現実。抽象と具象とが混合した記述。量よりも質が第一。
精神は身体から、主体は客体から分離している。精神/身体、主体/客体はいずれも同じひとつのプロセスのふたつの側面。
直線的時間、無限の進歩。原理的には現実を完璧に知り尽くすことができる。循環的(システムの中の特定の変数のみを極大化することはできない)。原理的に現実の一部しか知ることは出来ない。
AかBか」の理論。情感は生理現象に伴って二次的に生じる現象である。AもBも」の理論(弁証法)。情感は精緻な演算規則を持つ。
<原子論><全体論>
1.物体と運動のみが現実。1.プロセス、形、関係がまず、はじめにある。
2.全体は部分の集合以上のものではない。2.全体は部分以上になる特性を持つ。
3.生物体は原理的には非有機体に還元可能。自然は究極的には死んでいる。3.生物体、もしくは<精神>は、構成要素に還元できない。自然は生きている。
  

 この2つの世界観を比較しても、世の中の仕組みが見えてきて、多くの氣づきが得られるのでしょう。
 

 また、本書を読むと、ベイトソンが、ニューギニアの原住民の祝福のお祭りである「Naven」の研究を行い、後にサイバネティックスを精神病患者へ応用するなど・・・を通じて、なぜベイトソンがこのような世界観を持つに至ったのかの過程もだいぶん分かってきます。その意味でも名著なのです。

 
 さて、結論ですが、個人的には、このようなベイトソンの思想から具現化されたもののひとつが、NLPだと考えていますので、デカルトの世界観の克服とベイトソン的事実と価値が一体になった輝ける世界の実現を目指して練習に励んでいこうと考えています。また、本書の考え方がNLPの本流であり、ベイトソンの引いたレールの上を外さない限りは、亜流ともカルトと言われることもないのでしょう。(これは個人的な確信です。)

 そう考えると、仕事で使うロジカル・シンキング、フレームワーク、メソドロジー、日常生活での考え方を再度ベイトソン的にチューニングし直す必要がありそうですね。

 でも、これって New Code NLP的な考え方そのものですね・・・

 
それにしてもベイトソンは深い・・・・
posted by Hiroshi Matsuo at 00:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | NLP(Neuro Linguistic Programming)
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